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ビゴのテキストが少々おいてあります。(ロジャドロ中心です) 原作者様・制作会社様とは一切関係はありません。
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小さな庭 *サンジ (20040330)

海の上のこのみかん畑のすみっこに一列だけ、豆を植えさせてもらっていた。背が低く、つるを絡ませる柵の要らない種類の豆だ。みかんの手入れの合い間に雑草を取り肥料と水をやり、どこからか現れる虫を駆除する。甘い香りの可憐な花をつけ、やがてたくさん実をつけた。このみかん畑の持ち主の輝かんばかりのレディーは、茹でたさやつき豆をアンチョビソースで絡めたひと皿を御所望だ。かしこまりました、マドモワゼル。……畑の借料?……えと、ナミさんへの海より深く空より澄んだ俺の心からの愛でもってお支払い、いやいやこの体ででも……イタタだめですかやっぱ。ハァ。そんなつれないトコもステキだナミさん。

収穫したてのクソうまそうに太った豆のさやをテーブルに山にして、ひとつずつすじを取っていく。単純で幸福な作業が俺は好きだ。延々と食材を切ったりむいたり包んだり、なにかをことこと煮たり。ひとりで作業をしていても、なぜか誰かと幸福を分かち合っているように思える。おかしな話だけれど、これまでに関わってきて、けれど今ここにいない全ての人とも。

バラティエでも豆を植えていた。色鮮やかなはつかだいこん、小さくて甘い人参や、ハーブも。海の上でのそのささやかな場所は完全に俺に任されていた。俺に知らされずに摘み取られることなどなかった。密集させて育てると傷みやすく虫もつくので、収穫量はたかが知れていたが、丹精こめて作ったものが人の心や体を温めてゆくことの幸福を知った。

今あの場所は俺の代わりにクソジジイが、それともパティたちがみていてくれるのだろうか。ローザンヌ、アリアナ、エレイン、その他大勢の御婦人方の舌に触れる、ミント、ローズマリー、クレソン、セージ、タイム、ロケット、パセリ、バジル。朝露に濡れた葉を無骨な指が摘み取っているのだろうか、今日も。かつて俺がしていたように。今俺がここでしているように。
……たまには俺を思い出してくれているだろうか。いや待て、男は俺を思い出すな、麗しい御婦人方のみへの希望の話だ。

帰りたいわけじゃない、懐かしいわけじゃない、けれど。

遠く遠く、どのくらい離れてしまっただろうあの船。海の上の小さな庭を、思い出すのだ。

******

水平線 *ナミ (20040330)

その歯のそのものの、全てを裂いてゆく邪悪なまなざしを手配書の束の中に見つけたときに、心は過去へと一気に引き込まれた。私がなすべき全ては胸にあった。心は決まった。戻らねばならない、あの部屋へ。
これでおしまいなのだ、なにもかも。こんな幸福な日々が続くなんてはなから信じていなかったから、ここを離れても苦しんだりしない。もう彼らに会うことはないのだから、やがて忘れられるだろう。
霞む水平線から目をそらす。陽射しが私の背に注いでいた。水面は揺らぎながら輝いていた。もうすぐ顔をあげて、堂々とあの部屋から太陽の元へ出て行けるのだ。眩暈を感じているのはここを発つさみしさのせいなのか、やがて訪れる解放への期待からなのか。

Stultum est timere quod vitare non potes.

小さく呟くと、そばにいたジョニーが、どうかしたんですかナミの姉貴とバカ丁寧に訊いてきた。何だかおかしくなって、私は片頬笑みを返していたかもしれない。

この言葉を知ったのは、あの暗くて生臭い『私の』部屋でだった。必要だと言えば奴らはどんな本も買い与えた。羽を切られた籠の鳥に与えられる、矛盾したなんという自由。

避け得ぬことを恐れるのは、愚かなこと。

出来るなら、もう一度ルフィの顔を見たかった。悩みなんて吹き飛ばすあの笑顔につられて笑いたかった。大丈夫って背を叩いて欲しかった。同じ水平線を越えるなら、彼と共に行きたかった。どこまでも風に吹かれて、笑い声だけを風に流して。
また仲間に、そんなあつかましい願いは無理ってわかっていた。でも願わずにはいられなかった。
私はこの船で彼らといて幸福だった。もう泣かないって決めたのに泣いてしまうくらいに。

行かなくちゃ、あの空と水のあわいを超えて、過去に決着をつけに。だからさようなら。

******

影 *サンナミ (20040408)

いつもへらへら笑っている彼が、なぜか険しい顔で通路の向こうからやってきた。すれ違いざまに腕をとられ、すぐ傍の船室に引き込まれた。日の明るさに慣れた目が、小さな明かり取りの窓がひとつだけの部屋の暗さに反応できない。私の後ろで静かに戸が閉められる。
まるで逢引みたいじゃないの。
私を抱きしめて壁に押し付ける彼の服には、変わらず煙草とスパイスの香りが染みついていた。
「何なの、サンジくん」
彼の体を押しやって隙間をつくる。胸をそらして問い掛けると、彼は咽喉で少し苦しそうに笑った。腰を捕えていた手を振り払うが、その手は執拗にすがり、私の手を中に納めてしまう。
あら、めずらしく積極的。普段の饒舌さは影を潜めて別人のようだし、今までなら手を出してきても、ちょっと振り払えばすぐに引き下がっていたのに。目が慣れてきたのでまじまじと顔を覗き込むと、ためらうような表情を見せて、それでも私を引き寄せて抱きしめた。
「残念、もう少し正面から見ていたかったな。私、サンジくんの額から鼻にかけてとか顎の辺りとか好きだし、欲望に憔悴した男の顔ってちょっといいと思うわ」
耳元で囁くと、サンジくんは弾かれたように身を離した。
「ナミさん、それって」
「でもここでサンジくんの気持ちに応えちゃうと、欲望に憔悴してる男の顔は見れないわけで」
びっくりするくらいの勢いでサンジくんのあごが落ちた。私は笑いを噛み殺す。私の震える肩に腕をかけたまま、サンジくんは深くため息をついた。
「ナミさん、ホントに俺死んじまうよ、恋の病で。いや、それでも本望だけど、どうせならナミさんとラヴラヴになって幸福で死にてェよ。それにラヴラヴになれても、俺きっといつも憔悴してる、ナミさんが欲しくて」
やっといつも通りの軽口が出てきたけど、暗がりで見るその顔があんまり苦しそうで、なんだか申し訳なくなった。
私は彼を嫌いじゃない。彼が私を諦めて他の女の子の方を向いてしまったら、私はきっとひどくひどく寂しく思うだろう。では好きなのかと問われると、それはよくわからない。
優しくされて甘やかされて、彼がいつも変わらず好きだといってくれることに慣れてしまっていて、私が思っている以上に彼を残酷に傷つけていたのかもしれない。

でも今は答えなんか出せない。

「サンジくんが死んじゃったら、お腹がすいてこの船のみんなが共倒れね」
「この船に乗ってるのは、ナミさん以外は殺しても死なないようなやつらばっかだけどね」
窓から差し込む夕暮れの弱い光が、サンジくんの笑顔に陰を作っていた。腕を広げて彼が私を解放して背を向ける。彼の熱が肌から蒸発するように消えて行き、私は少しだけ寒さを感じていた。

「夕飯の準備します」
そういって彼は振り返らずに部屋を出て行った。
私はというと、彼の背を見送りながら何も言えず立ち尽くしていた。
サンジくんはもう、私のこと諦めちゃうかも知れないなって悲しい気持ちで考えながら。

******

蝶 *サンナミ (20040402)

いつの間に卵を産み付けられていたのだか、みかんの枝に青虫を発見したと言うので、その日ナミさんと俺はふたりがかりで駆除をしていた。駆除といっても薬を使うのも嫌だし青虫の数が少なそうなので、枝ごとに目を凝らし、見つけ次第に指でつまんで海に放り投げるというなんとも単純かつワイルドなやり方だ。
「綺麗な蝶になるんだし、かわいそうだけど」
と言いながら手も目も休めないナミさんの額にはうっすらと汗が浮いていた。彼女はこの木の手入れには手を抜かないし、今日は快晴、風もないし、陽射しは結構強い。
「平気なんすね、虫」
大きく開いた胸元やミニスカートからすらりと伸びるおみ足に、つい目が行ってしまうのは仕方ないよなと思いつつ訊いてみたら、サンジくんちゃんと枝見てる?とあきれたように言われてしまった。
すいませんでもナミさんの引力には抗えずに太陽さえも空から落ちてきます。言い終わる前にはいはいと口先だけであしらわれてしまったけど、向こうの枝に手を伸ばしてる彼女の横顔はどこか面映そうで可愛くて、抱きしめたいくらいだった。そうする代わりにもちろん俺は仕事を再開したけど。だってナミさんのパンチは時々思いがけないほど本気で入ってくる。

「ちぇ」
手を動かしながら、俺はすねてみせる。彼女が髪を揺らして振り返る。
「なに? サンジくん舌打ちしちゃって」
「だって俺、虫がいるって言うから、ナミさんがやーん虫がいるう、きゃー肩に落ちたよう、サンジくん取って取って、怖いのー、なんつって泣きながらすがってきて、そこで俺が大丈夫さナミさん何があっても俺が守るヨなんての期待してたのに」
「……素直に妄想を吐露してくれてアリガト」
「妄想扱いかよナミさん……」
やっぱり。ナミさんの背中にちょっと疲労が見えた気がする。

黙々と枝葉を調べていると、優しい響きの声がした。
「ココヤシ村はね、いつも蝶がいっぱい飛んでるわ。柑橘系の葉を食べる種類の蝶がいてね、暖かいから元気も良くて、放っといたらあっという間に木が丸裸よ。だから暇があればいつもこうやって退治しなくちゃなの。でもとても全部は無理だし、私たちも蝶を全滅させたいわけじゃないし」
「なるほど」
「あの村で卵を産み付けられたのかも知れない。停泊した他の港でかも知れないけど」
葉裏に一匹見つけたが、その時の彼女の声が少しだけ揺らいだ気がして、手を下ろして俺はそっと彼女を盗み見た。木の蔭に入って見上げている彼女の頬に、葉の隙間から光の斑が落ちていた。光と影の中で白い肌がくっきりと浮き上がる。
「ノジコとよく、さなぎのついた枝を取ってきて、みんなで羽化するのを見たわ。綺麗だった」
何かが咽喉につかえたかのように彼女は少し黙って、それからまた口を開いた。
「あいつらが村に来たときにも、家にはさなぎがあったわ。ちゃんと蝶になれたのかな」
声とは裏腹に彼女は微笑んでいた。
青い香りの枝を持ってあの丘を駆けていた少女は、やがてそんな子供らしい輝くような喜びさえ奪われてしまった。闇に囚われてあがき続けて、苦しみ続けて。八年。気の遠くなるような、余りに残酷な年月だ。幼い少女の手の中から失われた幸福。
「ナミさん」
思わず名を呼んだもののなにを言うべきかわからず、俺はただ彼女と見詰め合った。彼女の瞳が潤んでいるように見えた。ただ単に木漏れ日の反射かも知れないけど。
目の前の枝から指に青虫を移して彼女に差し出す。手に乗せられてうごめくそれは、小さくて頼りなくて蝶のようには美しくなくて、でも命だった。
「俺と見ようよ、羽化するとこ、一緒に。この一匹をここで育てて」
声がかすれてしまった気がする。彼女は視線をそらした。
「かわいそうよ。羽化しても海の上のたった三本きりのみかんの木、陸は遠いわ。水の檻みたいなものよ。私たちが望んでここにいるのとは違うのよ」
でも蝶は飛ぶんだよナミさん。風に乗って海を渡って、長い距離を旅する蝶もいる。みかんの花の蜜を吸いながら、次の停泊港まで船上に留まることだってできる。
そう言おうとしたけれどやめた。
ナミさんは知っているんだそんなこと。檻の中に生きることも陸地の遠さも日々ただ生き長らえていくことも、脆い羽でひとりきりあるかどうかもわからない陸地を目指す心細さも、俺に言われなくても痛いほどに。
なにも言えず俺はゆっくりと手を下ろした。手の中で青虫は必死に逃れようともがいていた。枝に戻すことも海へ放ることも出来なかった。無力だと感じて、それがひどく情けなくて切なかった。

彼女が枝を避けて木の蔭から静かに近付いてきた。俺の手を取り指を開かせる。汗ばんだてのひらから青虫は摘み上げられ、そっと枝へと返された。いそいそと葉群へ逃げ込んでいく。見送った彼女が振り向いて笑った。日の下で見るとその瞳は潤んではいなかった。そのことがいっそう切なかった。
彼女が身を翻した。
「お茶にしよ、サンジくん。美味しいお茶が飲みたいわ」
「ええ、冷たいものも用意してます」
楽しみねと呟く彼女を後から追いかける俺には表情はわからなかった。
船内に入る前にみかんの木を振り返る。水の檻の中の小さな箱庭。俺は彼女と蝶の羽化を見れるのだろうか。
蝶はいつか陸へ辿り着けるのだろうか。

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好きシーンで創作30題 『30 終幕』 エンジェルです。
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題

 

Acta est fabula, plaudice!
劇はおしまい、拍手を!

全てのものがゼロに帰し、私はその上に再びあの街を置こうとしている。なにを残し、なにを切り捨てるかはもう一度私の手に任された。道を敷き建物を置き、乗り物を置き、人を配置していく。見慣れた街並みをひとつひとつ再生させていく。この世界を創りあげた時、少なくともここにおいては全てのことが私の思い通りになるはずだった。

私は光の中で彼を見た、彼の心を見た。その心の奥の小さな部屋の扉に触れた。

彼は気付いているのだろうか、自分が心の小部屋にどんな思いを隠しているのかに、そしてそれを知りつつ私が彼女を人に戻さなかったことに。彼女が人でなくとも彼は選んだけれど、彼女を人でなくしたのも私、ここにふたりを閉じ込めたのも私、彼らの心を知りながら、彼らに全て知られながら、まだふたりを巻き込んだままあさましくここに居続けるのも私。私は身勝手で自意識に振り回されていて、けれど彼が許してくれることに甘えているのかもしれない。

どんなに素晴らしい舞台も不出来な舞台もやがて終わるし、終わらせなくてはならない。人の死が避けられぬものであるのと同じに。
私の作り上げた世界は私の思い同様に矛盾して破綻を見せ、そして幕を閉じた。この世界を閉じて現実に戻る勇気のない私は、もう一度私の世界を再生させてそこに生き続けようとしている。愚かだと知りつつ。

ロジャー・スミス、どうかもう一度だけ、この世界を試させて。許すと言って。新しい幕を開けさせて。

(20040401)

好きシーンで創作30題 『28 寄り添う』 ロジャドロです。
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題

 
登場人物はひとりの女とひとりの男だけ。ふたりの対話の間に、簡潔に示された仕草や沈黙やまなざしや叫び。海のそばにあるヴィラ、冬の日、記憶の中のワルツ。
掃除の途中、ドロシーが本棚の隅から見つけ出したのは、古びた一冊の戯曲本だった。埃をかぶり、表紙は色褪せて外れかけ、ほとんど題も読めないほどだったが、ページをめくればすぐにわかった。登場人物の女性の名がそのまま題になっていた。

彼が彼女の申し出に応じたのは、特に断る理由もなかったからだ。
怒涛のように忙しかった仕事が一昨日終わり、しばらくは差し迫った用事もなく、新たな依頼さえなければ当分は全くの自由の身なのだ。有能な執事と彼女のおかげで書類の整理も終わっていたし、睡眠は昨日頭痛が起きるほど取ってしまったし、恋人とは先日別れてしまったし、ドロシーは演劇を実際見たことがなく知りたいというが新聞をチェックしても興味をひく公演も今はやっていないし、外はひどく雨が降っていて出かける気にもなれないし。
つまるところ、彼はとても暇だったのだ。
そういうわけで、ロジャーは居間のソファーに腰掛け、彼女とふたりで一冊の本を覗き込み、読み上げあうことになった。
彼は男の、彼女は女の科白を読んでゆく。

行かないでくれという男のもとから、女は去ろうとしている。女にもこの別れは耐えがたい。しかし別れはなされなくてはならないと思っている。
物語は登場人物の現在と過去を、行きつ戻りつしながら進んでゆく。愛してはならない相手を愛するという罪深い愛、子供時代の海の思い出、夏の出来事、川に面したホテルのピアノ、互いの結婚、母の愛と死。男と女は視線を合わせない。ト書きにある。『愛し合い恋人となってしまうという取り返しのつかない危険をおかさずには見つめあうことができないように』と。

『あなたはまた去って行ってしまう、そうだね?』
『そうよ。あなたから逃げるために。あなたが、あなたから逃げるわたしと出会うために。だからあなたが来るとまた行ってしまうの。わたしたちが選べるのは、それだけだわ。』

ロジャー自身は慣れない科白まわしに困惑気味で、ドロシーは相変わらずの無機質な声音で、お互いに棒読みなのだが素人なので仕方ない。
しかし彼は途中、自分が思いの外この感傷的なラヴストーリーに入り込んでいることに気付いた。寄せて返す波のように互いに言葉を交わして話が進んでゆくためかも知れない。
ごく近くに座る彼女の横顔を見ると、文章を目で追っていくその頬に髪がかかっていてなぜか目が離せなくなりそうだった。あるはずのない吐息さえ聞こえてきそうだった。とにかく終わらせてしまおうと、ロジャーは本に視線を戻した。

ふたりで読み終えて本を閉じると二時間近く経っていた。咽喉が渇いていた。
外は雨がまだ降り続いていて、声が途切れると雨が音を吸い取っているかのようにひどく静かで、切なくなった。罪深い愛に苦しみ、隣に座る彼女に今本当に懇願していたような錯覚を覚えた。まるでふたりで寄り添って、ひとつの思いを生きたようだ。
ばかげている。これは現実ではないのに。この感情は役柄に引きずられていたから、それだけだ。舞台は跳ねて、にわか役者は現実に帰還した。
あれはただの芝居だ。これからも今まで通り何も変わらない。
「コーヒーをいれなおしてくるわ」
「ドロシー」
余韻を拭い去る潔い仕草で立ち上がった彼女を思わず引き止めた。もう少し側にいて欲しかった。けれど振り返った彼女の闇色の瞳と目が合うと、彼の口をついで出てきたのは劇中の女の名だった。
「アガタ」
彼女は何も答えずに部屋を出て行った。扉の閉まる音がなぜか悲鳴のように胸に響いた。テーブルに手を伸ばしてコーヒーを口に運んだ。冷め切っていたが飲み干した。
それからソファーにもたれて、手の中の本をもう一度開いた。

まだ心には、先ほど幕を閉じたはずの思いが、暗く沈んでいるような気がした。

 

文中引用 マルグリット・デュラス 『アガタ』
朝日出版社 1984年

(20040422)

好きシーンで創作30題 『26 告白』 ロジャドロです。
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題

 

遠くから見る墓石群は、降り続く雪の中小さくかすんでほとんど景色に混じってしまっていた。道路の脇にも厚く柔らかな雪が積もっている。後方へ流れてゆく緩やかな丘に見える墓地を、グリフォンの助手席に座る彼女が車窓から首をめぐらして眺めるのに私は気づいた。
考えてみればあれから一年がたつのだ。彼女が屋敷に来てから。彼女が父達を目の前で失ってから。雪の降る中、冷たい地下深くに埋められたふたつの棺。彼女を娘と呼んだふたりの男があの丘に眠っている。
曇天から大きな雪片が間断なく落ちてくる。もうすぐ夜が来るが引き返す時間はある。気温は低いが風はほとんどないようだ。私は彼女の横顔に問いかけた。
「今日はもうこれから帰るだけだが、……少し挨拶をしていこうか、この時期だから花もないが、あの丘へ」

墓地は歩道も墓石も雪で白く覆われていた。グリフォンを墓地の敷地の外に停めて降りてみると思ったよりも寒く、私の吐く息は外気に白くにごった。先を行く彼女の靴が雪に深く沈むのが見える。空が暗くなり、雪が強くなってきたようだ。
滑らないように踏みしめて歩を進める私とは対照的に、彼女は危なげない様子で雪を踏んでゆく。たとえ目印となる看板や墓碑銘が全て隠されていても、この広い墓地のどこに父親達の墓石があるか、彼女にはわかるのだろう。
小さなその背を追いながら、こんな風に雪も雨も超えて、彼女はいつか自分の墓へも来るのだろうかとふと思った。

このふたりの親を彼女はどう理解しているのだろう。人ではない彼女に、そもそも親子の情や死を悼む気持ちはどう位置づけられているのか。
並んだふたつの墓石の前に立ち、彼女はややうつむいたまま黙っている。彼女の隣で目を閉じて、短い祈りを心の中でささげた。ソルダーノのことは良くわからない、だがウェインライト博士は彼女と最期の時を過ごせて幸福だったろう。彼女が本物の娘でなくても。
「ありがとう、ロジャー。ここは寒いわ、もう帰りましょう」
やがて顔を上げて彼女が言った。体温がないため雪がとけずに、その頬やまつげに白く降りかかっていた。
「お祈りはすんだかね、ドロシー」
彼女の髪に乗る雪のかけらを、皮手袋をはめた手を伸ばしてそっと払う。目を閉じもせずにされるがままのドロシーは、どこか断ち切るように答えた。
「私は祈らないわ。祈りは私からあまりに遠い」
私は手を止めた。私達の間に雪が降りこんでゆく。隙間を埋めるかのように。私は静かに手を下ろした。
彼女が唐突に踵を返し、私に背を向けてもと来た道を歩き出した。空は暗さを増し、冷たい風が足元の雪を巻き上げ始めていた。

墓地を出ても彼女はずっと無言だった。私はかける言葉も見つからず、とりとめもなくあの夜のことを考えていた。
ナイトクラブでウェインライト博士は終始上機嫌に笑っていた。何かに酔わされたように私も、ライトをあびて歌い微笑む彼女を見ていた。真紅のドレスに包まれた彼女は、それ以降長い時を共に過ごした私にさえ決して与えない笑顔と歌声を、博士に向けていた。
君は私といて幸せなのか。
思い返すうちに、そう口に出してしまいそうになった。
君は私に歌ってくれたことも、微笑んでくれたこともない。いつも不機嫌そうで仏頂面で、笑顔よりもいらだちだけを見せて。
君はあの屋敷で居心地良く過ごしているのだろうか。以前私に負った交渉の代金の支払い、そんな理由で居たくもないのに、ここ、私の傍らに縛られ続けているのだろうか。
グリフォンに乗り込む前に、ドロシーは小さく伸び上がるようにしてもう一度墓地へと目をやった。それはほんの一瞬のことで、彼女はすぐにシートへと身を沈めてしまった。
車道にグリフォンを乗せて屋敷の方角へと走らせる。風も雪も強くなってきたようだ。わずかに残る鈍い明かりも闇にまぎれてゆく。車内にも寒さが侵略してくる。
もし彼女に表情があったならば、今どんな思いを浮かべているだろう。悲しみ。哀悼。寂しさ。それとも。想像もつかない。わからないからこそ知りたいとは思うが。
「君はさっき『祈りは遠い』と言っていたな」
「……祈りは人に属するものだわ。私は人のまねごとをする気はないの。彼女と同じものになる気はないわ、決して。私は彼女とは違う」
「彼女?」
声はいつも通り平淡だが、彼女はもしかしていらだっているのだろうか。彼女の思いはいつも想像に余ってしまう。
彼女がささやく。あの夜の歌声のままの銀の声。
「……ドロシー・ウェインライト。ウェインライト博士のナイチンゲール」

シートを軋ませて彼女は私に向き直った。
「本当のことを言うわ、私は彼を」
言いかけて彼女は止めた。私はただ待った。道を照らすライトの中で雪が狂おしく舞うのを見ていた。長い沈黙の後にようやく彼女は口を開いた。
「この思いを表す適当な言葉が見つからないわ。私には表現できない。ひとつ言えるのは、……彼は私を愛していたのではないということ。私は博士に無条件に愛情を抱くように、そして私に組み込まれた彼女のメモリーを再現して振舞うように創られた。でも私は彼女ではないの。彼女はとうに死んでしまって、もうどこにもいない」
彼女は悲しいのだろうか。自分が本物の彼の娘でなかったことが。それとも彼が娘の役割を彼女に押しつけたことが。あらかじめプログラムされた愛情と知りながら、博士を愛することが。
残酷な話ではあるが、博士にとって彼女自身の意思は存在する必要のないものだったことは事実だろう。ひとえに娘をよみがえらせるためだけに、博士が可能な限り精巧なアンドロイドを創りあげようとしてそれを叶えた。
皮肉にもその執念がドロシーに彼女自身の心を与えたのだ。
プログラムを超えて自分を模索し確かめようとする心を。愛憎入り混じる、彼女自身が持て余すほどの複雑な働きをする心を。

あの夜博士といたのは彼女ではなかった。博士の娘、死せるドロシー・ウェインライトの亡霊だったのだ。
「君は君自身でいればいい。どんな心にも矛盾や混乱は宿るものだ」
口にしてみればただ陳腐なだけの言葉だ。それでも伝えずにはいられなかった。彼女が微笑みも誰かへの歌もかたくなに拒むのは、亡霊を遠ざける彼女なりの術なのだ。

屋敷近くの通りに入ると、風の音が少し弱まった気がした。彼女が小さくありがとうとつぶやいた。私は聞こえなかったふりをして、車の速度を落とした。

(20040527)

好きシーンで創作30題 『24 忠誠を誓う』 ロジャドロです。
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題

 

 言うまでもなく彼女は重い。とてもとても重い。ゆえに、その全体重を受ける靴はすぐに傷んでしまう。

彼女が執事に、また靴がひとつ傷んでしまったと言っていたのを出掛けに聞いたそのせいだ、彼は朝から街の靴屋がやたらと目に付いて仕方なかった。何足か揃えているはずなので当座は問題ないだろうが、ずっと彼の心に引っかかっていた。どこかで帰りがけに買おうと思っていたものの、思いがけず仕事が押して、依頼人の家を辞して目当ての店に着いた時は閉店間近だった。
店に入る前にあわてて靴のサイズを執事に訊いたが、同時に今まで一度も彼女に靴を贈ったことがなかったことにも気付いた。あの屋敷に彼女が来てから相当数を履き潰してきたはずなのに、その機会もなかったし、思いつきもしなかった。
贈り物をしたのもただ一度、ヘヴンズデイのコートだけだった。彼女は使用人でしかもアンドロイドだ。彼が贈り物をしなくても当然といえば当然だが。

食事の後にリビングに彼女を呼んだ。優雅な仕草で彼女が向かいのソファーに腰掛ける。彼女の重みにソファーが軋みを上げる。
脇に置いた箱の大仰な包装が、いまや彼を居心地悪くさせている。ラッピングなど頼むのではなかった。これは日頃の彼女への感謝の気持ちでそれ以上ではないのに、これではまるで特別な贈り物のようだ。
飲み物を運んだ執事が気を利かせたらしく席を外してしまったことに彼はますます複雑な気持ちになり、ついには彼女から目をそらしてしまった。
「それで、ロジャー・スミス」
静かな声で彼女が囁いた。夜風を入れるために開かれた窓辺ではカーテンが揺れている。彼女の声は柔らかく壁に反響して消えていった。朝には気付かなかったが、花瓶に生けられた花が強く香っていた。
顔を上げ彼女を見ると相変わらずの無表情ぶりに少しだけ笑ってしまった。

自分がこの無愛想なアンドロイドに日々振り回されながらも愛着を抱き、贈り物をしたいだけなのだと気付く。彼女がこの贈り物を受け取り、気に入ってくれれば自分も嬉しいだろう。彼は箱を手に取り、彼女に手渡した。
「開けてみたまえ。君への贈り物だ」
「なぜ。今日はヘヴンズデイでも、誕生日でもないわ」
「そんな日もある」
短く言って促した。彼女の細い指が包装紙を破り、箱を開ける。そのなかにはもちろん靴。色はこの屋敷のルールにのっとった黒。ただいつもの形ではなく、少しかかとのあるものを選んだ。彼女に似合うと思った。
「朝の話を聞いていたのね」
彼女の瞳が彼に向けられる。心を射抜くような、不躾なまでに強い闇色のまなざし。その引力に抗うように、彼はもう一度目をそらした。
「時間がなくてゆっくり選べなかった。気に入るとよいのだが」
「ええとても。ありがとうロジャー・スミス」
彼女の声には色も温度もなく、それでも思いが伝わる。彼女は確かにアンドロイドで、けれど他の誰が何を思おうと心を備えていると彼は知っている、初めて会ったその時から理解していた。

彼は立ち上がって靴を受け取った。彼女の膝から空箱を床に落として、前に片膝をついた。彼女は何をされているのかわからないようだったが、彼はかまわず小さな足から履いていた靴を恭しく取り、まるで忠誠を誓うかのようにかがんだままで、華奢な足先を新しい靴の中へそっとしまいこんだ。


(20040412)

 

好きシーンで創作30題 『20 シーツにくるまる』 ロジャドロです。
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題

夜と同じ色のシーツの間で彼女の主人は眠っている。夜は深く、寝室に光はないが、寝台のそばに立つ彼女の目は彼の体の輪郭とそれを覆う闇のすべてを見分ける。彼の寝息と安らかな表情を、体温や脳波や心音を確かめる。
これはどこか儀式めいた彼女の秘密だ。彼が知ればひどく憤るだろうことはわかっているが、眠る彼の寝室を彼女は時折訪い、何十分も眺めている。多分彼女自身そうする理由を理解できずにいる。

片腕を持ち上げて視線を移した。その細い腕の中に彼の体を捕らえて、強く抱きしめたことがただ一度あった。彼の体を痛めつけんばかりに締めつけた、ほとんど死に至らせるまでの抱擁。
メモリーの内に残る混乱のまざまざしさ。彼女はものごとを忘れるようにはできていない。なにもかもが沈み込むような夜半、彼の傍らで彼女はその記憶について幾度も考える。なにが問いでなにが答えかもわからないままに。

低い吐息とともに彼が寝返りを打った。シーツが彼の体の形に添って流れをつくり、背が闇の中にむき出しになる。目を覚ますおそれもあったが、彼女は上げていた手を伸ばして、彼の抱えこんだシーツをそっと引いてその背にかけなおした。
不意に彼がもう一度寝返りを打ち、はずみで指先がわずかに彼の肩に触れてしまう。彼女は身を引く。

彼は目を覚まさない。

来たときと同様に、音も立てずに彼女は寝室を後にした。ひそやかに扉は閉じられた。
眠る彼を包んだ同じ闇が、屋敷の奥へと彼女の姿を隠した。

(20040701)

好きシーンで創作30題 『14 ──越しに触れる』 ロジャドロです。
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題

 
 昼近くになってようやくピアノの音で目覚めてみると、夜のうちからの雪が街を薄く覆っていた。今年初めての雪だ。柔らかく、まだ消えやすい。風はなく、ただ静かに降り続いている。
ぼんやりと外を眺める私のためにノーマンが暖炉に薪を足し、火の粉が舞いあがった。ドロシーが熱いコーヒーを運んできた。カップを受け取ったとき、彼女の指がわずかに触れた。その氷のような冷たさに思わず息をのむが、すぐに気づく。
彼女は体温を持たないのだ。

暖炉の前のソファーで本を読みながら、いつの間にかうとうととしていたらしい。床に落としていたのだろう、手に持っていたはずの本は、拾い上げられて傍らのテーブルに置かれていた。暖炉には充分に薪がくべられて部屋は暖かく、私の体には毛布がかけられていた。眠気のせいでまだ定まらない頭をめぐらせて見わたすが、室内は誰の気配もなく静まりかえっている。なぜか小さな不安を覚える。体は温まっているのに、どこか心の内側が冷え冷えと感じる、冬の孤独。
身を起こして伸びをし、なんと言うこともなく外を見るために窓に近づくと、降り続く雪に半ば埋もれた小さな足跡がテラスに残り、その先にドロシーの華奢な後ろ姿が見えた。
どれくらいそこにいるのだろう。肩にも頭にも雪が積もっている。彼女は寒さを感じない。そうわかっていても、こちらに背を向けて立つ姿は寒々しかった。

ガウンをはおって外へ向かう。雪混じりの風が髪を乱した。身を切るような寒さをこらえて私は奥歯を噛みしめる。服に覆われていない彼女のうなじや手の白さが、目に染みるようだった。彼女が私を振り返った。
彼女はいつも街を眺めている。雨の日も風の日も何時間でも。私には到底理解できないほどの一途さで。
黙って強く彼女の片手を取ると、雪に濡れた指は痛いほどに冷たかった。乱暴に自分の手ごとガウンのポケットにねじ込む。そのまま暗さを増してゆく街を見下ろす。風に吹かれて彼女のスカートのすそが視界の端に踊った。粉雪が顔を打つ。
彼女の見たいものを自分も見てみたかった。彼女が倦むことなく日々眺めるのは何なのかを知りたかった。しかしどんなに目を凝らしても、何が彼女をこんなにも捕らえるのかわからない。見えるのはいつもの街だ。誰もが静かに絶望を飼い慣らしているような街。鈍色の空から落ちる雪片。雪に消えそうなはかなさの彼女の姿。
ポケットの中で手をつなぎなおす。指を組みかえてなぞる。確かめるように幾度も。生身の女性なら微笑んで触れ返すなれ合いの、戯れのしぐさ。しかし彼女は私が触れていることはおろか、手を取られていることさえ気付かないかのように、ただ私を見ている。冷えきった手はなかなか暖まらない。
彼女はつくりもので、心なんてないんだ。そう思う反面、それを否定する思いも強い。彼女の心はどこかに閉じ込められているのだ。例えば継ぎ目ひとつない氷で出来た城の奥に。心がどんなに生き生きと騒ぎ立てても、それを表す術を知らないだけなのだ。
昔々に聞いた物語。雪の、……いや、氷の女王の話だっただろうか。女王にさらわれて氷の城に囚われた、魔法で心をなくした子供、それが彼女だ。ひとりきりで、氷のパズルで遊んでいる。私は今、氷の魔法越しに彼女に触れているのだ。彼女の心にじかに触れることはできないのだ。
彼女のために、氷のパズルでどんな言葉をつづればいいのだろう。もしも彼女の胸に涙を注いだら、魔法は解けて彼女は手を握り返すだろうか。その指に温度が戻るだろうか。
冬は人を感傷的にする。この私を物語にさえすがらせる。
私は少しさびしい気持ちのまま笑う。彼女は小さく口を開いたが、そのままもう一度口を閉ざして何も言わなかった。透明なガラスのまなざしには、どんな感情も見えなかった。繕った微笑みさえなかった。多分寒さのせいだろう、眼と鼻の奥が少し痛んだ。

手を放せばすぐにまた彼女の指は熱を失う。暗い世界の果ての凍える城で、女王が両手を広げて彼女を待ち受けている。

私は彼女の手をポケットの中で握ったまま、彼女を部屋へと導いた。彼女は抗わずについて来た。足下で新雪が微かな音を立てて崩れる。暖かな室内に入ってようやく、私はこらえていたため息をついて、氷の城のイメージを振り払った。室温にとけ始めた雪が髪を伝って落ち、床に染みを作った。彼女が寄り添うように近付いた。
それから私たちは無言のままだった。夕闇が迫り来て、冷たい小さな手が私の熱で暖まるまで。

理由も分からない悲しみが、夜に紛れて消えてゆくまで。

(20041223)

ロジャエンバージョンとロジャドロバージョンがあります。


好きシーンで創作30題 『13 手を伸ばす』
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題

ロジャエンバージョン

ビルの隙間を抜けて窓の外をゆくのは優雅な魚たちだけ。水面は遠く、どんなに目を凝らしても見えはしない。水中深くのビルに閉じ込められて三日が経っていた。
本来ならメモリーを隠して煌々と光を放つあの一角に辿りつき、とうに地上に戻っていたはずなのに。世界から切り離されたようなこの一室で、一緒にいるのはこんなことになった原因の男。涼しい顔で紳士を気取った、いまいましい男。

  欲望が互いにあって、
  そしてそれを叶えるのは容易くて。

このままこの水底で死ぬのかとの思いが、絶えず私を捕らえていた。メモリーを手に入れていない以上雇い主からの救助もありえず、目の前のこの男にもなんの手立てもあるとは思えない。助かる可能性と助からない可能性を幾度秤にかけて考えても、状況は眩暈がするほど明らかに絶望的だった。 飢えで。渇きで。酸素を使い果たして。やがて、私たちは死ぬ。
黙っていれば心は死の恐怖に飲み込まれる。落ち着いて見える彼の心の内はどうなのか。少なくとも私は恐れを彼に見せまいと虚勢を張っていた。軽口をたたき、つまらない冗談を言い、芝居めいた仕草をする。必死に取りつくろいながら今にも胸はつぶれんばかりだった。気を抜けば泣き崩れてしまいそうだった。

  私たちが選んでその欲望を叶える。
  あるいは叶えない。

例えば滅びた世界にたったふたりきりで生き残ったとして。共に生き延びた相手がどんなひとであったとしても、きっと近づかずにはいられない。
ひとの心はそうできているのだ。孤独や恐れを同じ立場で感じるとき、そこには引力が生じるのだ。 だからだ、本当は私が何を求めているか、どこに属し、なんのためにこの街に来ているか、彼になにもかも打ち明けてしまいそうに幾度もなった。ソファーに深く座り、薄闇の中で静かに話を続ける彼が苦しいほどに欲しかった、多分恐れから逃れるために。
もしかしたら初めて会ったときからそう思っていたのかもしれない、もうわからない。わかっているのはこの欲望についてだけ。

  互いの欲望の深さを。
  熱を。甘さを。その苦しさを。
  知っていて私たちは近づいてゆく。

椅子代わりに腰掛けていたテーブルから足を床に下ろし、彼に向きなおる。部屋の空気が少し薄くなったように感じる。さっきから震えのとまらない両手を彼のほうへ伸ばす。
彼の名を呼ぶ。ロジャー・スミス。
私を見つめる彼の表情に、欲望は見つけ出せるだろうか。
あとどれくらい時間は残されているのだろう。私たちにとって充分な時間があればいいけれど。
「……私、死ぬのが怖いの」
あなたは死が怖くはないのだろうか。あなたも私を欲しいと思っているだろうか。
彼もソファーから立ち上がる。遠くから私を支えるように両手が広げられた。
だめ、まだ私たちの間には距離がありすぎる。叶えるならばあなたから近づいて。

  ──さあ私は選ぶ。
  君も選んでくれ。

そばに。来て。

(20040604)

******

ロジャドロバージョン

ピアノに向かう彼女の姿はとても真摯だ。コーヒーカップを片手に彼女の後ろに立ち、私はぼんやりと細いうなじを見つめている。鍵盤を叩く指の先から流れ出す音楽は優しく甘く、先ほど私を乱暴に眠りから引き剥がした騒音とは大違いだ。インストルの元へ通いだしてから、彼女の音は明らかに変化を見せた。
こんな繊細な音が出せるならば朝もそうしてくれればいいんだ。そう言ってみようかと思ったが、返す言葉も想像できたのでやめておいた。
あなたがこんな静かな曲で起きるはずはないわ、ロジャー・スミス。
きっと振り返りもせず彼女はそう言う。
不思議だ、私たちの日常にはいたわり合いや気遣いもあるのに、同じくらい避けがたい冷ややかな拒絶がある気がする。私が拒み、彼女が拒む、すぐそばにいながら永遠に縮まることのないこの距離。
それが悲しいわけではない、私たちにはそれが似合いなのかも知れない。所詮私たちは絶対的に『違う』のだ。

体はピアノに向けて音楽を続けながら、肩越しに彼女が振り返った。
「ため息をつくなんて、なにを考えているの、ロジャー」
ため息をもらしていたことも気づかなかったが、思いを見透かされたような気がして私は口ごもる。
「……君には決してわかりえないことだ」
「そうね。言わなければわかるはずもないわ」
彼女はピアノへ向き直った。

私が拒み、彼女が拒む、すぐそばにいながら永遠に縮まることのないこの距離。

本当にそうなのか。彼女の背からテラスへ視線を移して私は苦く思う。私たちは互いに傷つけあいたいわけじゃない。ならばこの関係を変える術はどこかに確かにあるのではないだろうか。
私が推測したとおりの答えを彼女が返すとは限らない。確かに言ってみなければわからないのだ。
ピアノを弾き続ける彼女に近づき、先ほどの失言を謝罪し、朝の起こし方を考えなおしてくれないかと頼むことは今すぐにできることだ。
それは簡単なことに違いない。朝っぱらからの騒音にいらだち怒鳴りつけ、その後言いようのない苦々しさを感じるよりも、もっと簡単でもっと人間的な、……言いかえるならばもっと紳士的なやり方ではないだろうか。
なぜそれだけのことをいつも私はためらってしまうのだろう。まるで近づくことを恐れているかのように。

曲が終わったことに気づいて私は少しあせりを感じる。こちらに視線を向けようともせずに、今立ち上がろうとする彼女を引きとめようと。

近づいて、……手を伸ばす。

(20040729)

好きシーンで創作30題 『11 生む』 エン
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題


どこか遠くで雨が降っている気配がする。この世界を外から濡らす雫が、心を打っている。

彼女は目を開ける。耳を澄ます。光のささず音もない闇は、湿りけを帯びて彼女を包んでいる。何も見えず何ひとつ定かでなく、自分の体も意識も闇に溶けたよう、しかし同時に満ち足りたようにも感じられる。
つい先ほど、彼女は自室の寝台に横たわって目を閉じて、そうしてここへ来た。ドアを開ける必要もなく、もちろん地下へ下る必要もなくただ沈み込むように、世界を形作る無意識の領域へ辿りつく。
そこは彼女の心、その深い闇。人々に恐れをもって認識され、その闇にあえて触れるものは罰を受けなくてはならない、この世界の成り立ちに近づくのは許されぬことゆえに。
この場所で彼女の力は目覚める。ここでなら彼女はすべての記憶を解放し封印できる。事実も想像も、あったこともなかったことも、形を歪め引き伸ばし切り貼りして、この世界の神として彼女は采配を振るうことができる。
しかしひとたび地下を離れれば、彼女は闇を忘れてしまう。彼女自身が闇とその対になる世界とを創造したことを思い出せなくなる。自分が作り出した闇を恐れさえする。自分の心を守るために。

物語には新たな事件が必要なのはわかっていた。闇に近づいた彼と少女とが、再び地下に向かうことのないようにする必要もあった。
そして彼らを互いから引き離したくもあった。この世界でも彼は自分を選ばないのだ。
どうすればいいのだろう。どんな謎を彼に追わせればいいのだろう。どんな出来事が、この認めがたい関係を覆せるだろう。
どうあれば、彼は私を。

雨が濡らすのは、目を閉じた体が眠る部屋の窓や屋根だろうか。それとも体の中に閉じ込められた、世界そのものだろうか。

『人でなく』、『記憶も心も持たず』、『何もない世界で会ったとしても』、『愛することもかなわない存在になっていても』。
それでも彼は自分でなく少女をそばに置き、心を近づけていった。
……それならば、もしも少女が彼の敵で、彼に害をなすものだとしたらどうだろう。パラダイムを治める愚かな王の手先だったら。いいえ、少女自身が悪である必要もない。同じ姿で彼に疑念を与えるだけでいい。
わかっている、これは悪しき考えで、望んだり試したりしてはならない罪深いこと。
しかしこの世界で一体誰が罰すると言うのか。この世界の成り立ちは誰にもわからない、パラダイムの神が誰であるか、知る者はいないのだ。

『もしもお前を見たものが生きているなら、お前の話はまるきり嘘だ。
死んでいないならその者はお前を見てはいないから、
死んでいるのなら見たと言うことさえ出来はしないから』

闇の中小さな赤い光が生まれる。揺らいで広がり、細い少女の影を浮かび上がらせる。伝説のバジリスクのように、その影は命を奪う。この闇からすべてが始まる。
半ばのめりこむような一途さで、彼女は世界に自らの物語を問う。

ロジャー・スミス、あなたは闇の中で私の生み出す謎に、まなざしの毒で周囲に死と荒廃をもたらす緋色の影に出会う。その影が、身近に置いた少女の姿をしていると理解した時、あなたはどうするだろう。

さあ目覚めなさい、神に見捨てられた哀れなバジリスク。お前の姿を見た者に死を与えなさい。
瞳を閉じた彼女の心の底、雨の音を世界に満たして。
地下深くの闇の中で、少女の姿をした機械仕掛けのバジリスクを閉じ込めた檻が、開く音がした。

*文中引用『El Basilisco』 Quevedo(意訳)
(20060324)

好きシーンで創作30題 『03 指を絡ませる』 エン→ロジャー
*こちらからお借りしました → 好きシーンで創作30題



ロジャーは私を選ばなかった。これからも選ばないだろう。そうわかっていてなおもあがく私は愚かなのだろうか。
闇の中に立ちつくし、心底憎み心底愛した街を窓から見ていた。心は麻痺して鈍く、何かを考えることも行動することも出来ない。ユニオンの召集もひとごとのように遠かった。街の光が潤んでにじんだ。
終わってしまったもう変えようもない出来事を、私はさっきから幾度も思い返している。酒を飲み、食事をし、海辺を歩いた。寄せて返す波音を聞きながら、囁き合い指を絡めて抱き合った。夜の潮風は冷たかったけれど寒くはなかった。互いの心に触れた気がした。私たちは幸福な恋人たちだった。
けれど顔を上げて見つめると、ロジャーは明らかにためらっていた、そして。

ドアが軋む音がして私は振り返った。とっさに身構えたが闇に浮かぶ体の輪郭は見知ったものだった。ダストン大佐だ。窓からの弱い明かりも扉近くに立つ彼の顔には届かず、表情は陰になって見えない。彼からも逆光になって私の顔は良く見えないだろう。体の緊張を解いて黙って見ていると、彼はなぜか言い訳のように小さく、ドアが開いていたのでと言った。
私を捜していたのだろうか。嫉妬に駆られて取り乱した私を。アンドロイドに負けて尻尾を巻いて逃げ出した私を。
部屋の雑多な物を避け、静かに近づいた彼の差し出した手には、私の落とした銃があった。
無骨な男、不器用な男。彼の朴訥とした言葉は私へのその精一杯の慰めなのだろうか。彼が慰めたくなるほど私は苦しげに見えるのだろうか。
夜気に身が冷えたようで少し寒かった。銃を受け取るためというよりも、人の熱や優しさに触れたくて私は彼の手に手を重ねる。受け取った銃をそのまま床に落として、驚いて唸りを上げる彼の胸に顔を寄せる。彼が困惑した気配が伝わってきたが、かまわず背に手を回してしがみつく。なだめるようにおそるおそる彼の腕が私の背に回る。私たちは強く抱きしめ合う。

違うのはすぐにわかってしまった。
彼は優しさがある男だ。包容力も温かみもあり人間的だ。私の体を暖めてくれるだろう。軍警察の立場として、そして私個人を知っているものとして、板ばさみになり苦しんでくれるだろう。 けれど私が願う人ではない。
そっと体を押しやって引き離した。彼は無言で腕を開いた。私はその前で今や寒さに震えていた。この寒さは私の中に巣食う虚無から来ているのだと、もう気付いていた。

私にはどうしようもなく好きな人がいて、けれどその人にも私ではないどうしようもないほどに愛しい存在がいて、それはもう決して覆せなくて、それゆえに私はこんなにも淋しくて悲しいのだ。暖かくても他の人の腕ではだめなのだ。夜の海で私が指を絡めた、あの手でなくてはだめなのだ。
身をかがめて床に落とした銃を拾い上げた。ごめんなさいと呟くと、振り返らずに彼を置いて部屋を後にした。
行く当てなんて思いつかないままに。

(20040417)

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