セレナタの文化についての書籍を探しているのですが、あまり見つからない。
セレナタとはセレナーデ、いわゆる夜想曲のこと。男性が女性の家の窓の下で楽団に歌わせる(あるいは本人が歌う)と言う習慣のこと、またその曲のことです。女性がその男性の想いに応える気持ちがあれば、バルコン(バルコニー)に出てきます。女性の方の親がふたりの仲を認めているならば、父親が女性の手を取って玄関から出てくるとか。
今ではすっかりさびれてしまったとは知り合いのラテン人の話。昔の話だよ、誰もしないよ、だそう。他の国ではやってるかもしれないけど、ともかく彼の国ではもうやらないらしい。
なんてもったいない。ロマンティックでいいと思うんだけどなあ。
日本人にはキザ過ぎて鳥肌モノですが、ロマンティックの本場(偏見)のラテン諸国ではぜひぜひ続けて欲しい。私はされたくないけど。
かなり前に買ったんだけど、マニー・マヌエルのセレナタのライヴDVDを観ると、いつでも引き込まれる。マニー・マヌエルと言えばとにかくメレンゲって感じだったのに、セレナタも素敵だ。マイケル・ステュアートなんかも似合いそう、歌って欲しい。
しかし映像表現のひとつなんだろうけど、踊る女性のイメージが必ず挿入されてて、これがなんとなく微妙。オリエンタルダンス風かと思いきやヒターナ(ロマ:ジプシー)風だったり、踊りもなんとなく不思議な感じ。普通にライヴだけで満足なのに。
セレナタのCDもっと欲しいなー。探してみよう。
ポプラの木で形作られ鮮やかに彩色された素朴な人形は、ホピの人々の暮らしに深く関わる精霊たちの姿を現しています。
この展示物の作者は300ものカチーナ人形の姿が頭に入っているとのこと。
私の好きなミステリのシリーズに、ナヴァホ居留地のふたりの警官を主人公にしたものがあります。作者はトニー・ヒラーマン。ベラガナ(白人)でありながらナヴァホの文化に深い親しみや知識を持っているのでしょう、彼の書く作品にはナヴァホならではの人生観や感覚があります。
作品中ではナヴァホのみならずホピやその他の部族の文化もテーマとされることもあり、今回このカチナ人形を前に、これも出てきた、あれもあったとわくわくしながら見ました。
展示物の量は少なめでやや物足りない感がありましたが、それにしても面白かったな。ホピのカチナってコミカルな表情でとにかく鮮やか。ホピ神話の本、探してみようかな。
その後友達と会ってご飯に行きました。
一人旅の相談をしていたらいつの間にか、ビデオカメラを片手に電波少年的旅をすることになってました。えええー。
ティモシー・ウェインライトとR・ドロシー・ウェインライト。娘を再生させた父と、死者を模倣する偽者の娘。
この二人の関係は、私には愛情で繋がるとは到底思えない。
人の記憶は余りに曖昧で、思い出す者に対してのみ甘い。
博士は死んだ娘を、ナイトクラブ『ナイチンゲール』でのR・ドロシーのような、父に従順な娘としてだけ思い出したのだろう。だからこそ、彼の前でR・ドロシーはそう振る舞うように作られた。
父の話に笑い、望み通り歌い、父の庇護を求めてその背に隠れる娘としてしか思い出されない本当な娘は、不幸な存在だ。けれど彼女はもう死んでいる。死者をどう思い出すかは生き残った者の自由だ。
R・ドロシーは笑うことも歌うこともしない。誰かの後ろに隠れてやり過ごすこともない。そうしない、と言うことは、私には彼女の強い意志のように感じる。自分のモデルとなった少女とはまるで違うのだと主張しているようだ。
私は他人の姿と名を持って存在し、その事実に抗い続けるR・ドロシーの方を不幸だと思う。
もしかしたら博士の信じたくない本当のドロシーは、R・ドロシーのようなのかも知れない。そう思うと少し楽しい。
博士とドロシーについてはもう少し書きたい。書いていくうちに私の博士についての不信感が募り、ドロシーの負けん気が強くなるのが、何とかしたいところ。
向こうに着いたら楽しいだろうなって考え出したら、もうとまらない。
もう少し言葉も勉強していこう。ホテルはどんなとこにしよう。何を見よう。何を食べよう。どんな出会いがあるだろう。
大きな街にはほとんど行かないつもり。遺跡もあんまりメジャーじゃないところ。ビーチもショッピングもそんなに興味ない。いつか住みたいその国で、知りたいのは人々の暮らし。
もしお金があったら、もうひとつ行きたい国がある。一度行った事があるのだけれど、その国は私の特別な国になった。それまでほとんど知らない国だったのに、なぜか懐かしく今も思い出す。
目がくらむくらい美しくて怖いくらい鮮やかな国だった。
海の遠いところで、音もなく曇天が雷にきらめいていた。夕暮れ明かりのともった古びた家から、歌うような声が響いていた。優しくて暖かな現地の訛り、あふれる音楽、人々はその国のように伸びやかで健やかで綺麗だった。
特に誰かと親しくなったわけではなかったけれど、まるで故郷に帰ってきたように感じた。
この冬に行く国も大好きな国だけれど、私の特別な国だけど、故郷のようだとは思えなかった。あの国がどうかあのままで、性悪な隣国に脅かされることがありませんように。
一人旅は初めて。臆病者なので、かなりびびっています。手続きとか資金とか言葉とか、色々不安だらけ。正直期待よりも不安が勝っています。
でも、いろんなことを一人で出来るようになりたい。昔話に出てくるような、恐れ知らずで賢い子供、そんな風になりたい。「一打ち七匹」みたいな。もう子供じゃないけど。
今年は伝説の王様のゆかりの地に行くつもり。なぜかわからないけれど、その王様の伝説がこの一年間私を捕まえています。小さな町で、何もないよって知り合いに言われたけど、かまわない。とても楽しみ。
天気がいいといいなあ。私の恐れが全て杞憂でありますように。
全てがうまくいきますように。
外国旅行でふらりと立ち寄ったお店の女性で、彼女はまだ若く、高校生くらいに見えました。
私はその国を訪れるのは2度目でしたが、その頃その国の言葉をごくごく片言しかわかりませんでした。辞書を片手に商品や値段について聞くうちにも、彼女の人柄の良さは伝わってきました。
観光客のほとんど来ない地元のお店だったこともあったのでしょう、彼女はあれこれと時間をかけて商品を選ぶ私達に本当に親切でしたし、近所のおばあさんもやってきて(言葉がほとんど通じないとわかっても)私達に話しかけ、本当に和やかな雰囲気でした。
その旅行の間も旅行の後にも、幾度も思い出してしまう素敵な女性でした。
翌年もそのお店に行きましたが、彼女は店にいなくて代わりに男性が一人いました。またそこで買い物をしてから
「去年ここへ来ました。女性が一人いて、彼女はとてもいい方でした」
と言うと、その男性は彼女は私の妻ですと言い、仲がいいと言う仕草をしました。
その男性は彼女の父親だろうかと思っていたので、正直驚きました(笑)。外国人の年齢ってわからない。
彼女にお礼を言いたかった、よろしくお伝え下さいと言って店を出ましたが、私の怪しい外国語が通じたかどうか。
もう一度会いたかった。
その国を何度か訪れて、いろんな人と言葉を交わしました。なのになぜか、その国の人たちの優しさや善意に触れたことを思い出す時に、私は彼女を一番に思い出します。
もう顔もはっきり思い出せない人ですが、いつかもう一度会ってきちんと知り合いになりたい思い出の人です。
夢ならではのつじつまの合わなさや混乱ぶり、支離滅裂さ加減は面白かったり怖かったり。
日々の出来事や心のありようを不思議な形で映してみせる夢の形を、私の好きな作家は「不意に配られる、誰からとも知れない郵便物」と表現していました。
先日見た夢の話。
多少つじつまを合わせて脚色しています。
通っていた小学校の一室、古びた教室は広くてたくさんの人がいる。窓の外はからりと晴れたさわやかな日。
私は他の人々と一緒に教室に模擬店のような小さな店を広げる。周囲には知り合いの店もあって、にぎやかな雰囲気が満ちている。
けれど気づくと人の気配は消えていて、室内はしんと静まり返っている。見回してもただ雑然と物が散らかり、埃をかぶっているばかり。私一人が取り残されている。
外は変わらずさんさんと陽が降り注ぐのに、なぜかとても寒い。窓から見える木々は青々と茂り、季節は春か夏のようなのに、私は震えている。手近にあったダウンを着込んだが、寒さは増すばかりで歯の根も合わない。他の人たちの行方は私にはさっぱりわからない。
外は暖かいに違いない。陽射しにあふれた校庭に面した窓を開けるが、震えはとまらない。風景は変わらないのに、なぜかここで店を広げたのは昔のことだと思えてくる。
トミタさんが窓の外を通りかかる。私を見つけ、ダウンを脱ぐようにと笑いながら身振りで伝えてきた。私は首を振って答える。寒くてたまらないんです。実際うまく喋れないほどに私は凍えている。
トミタさんがさらに笑う。着れば着るほど寒くなるんだ。脱いだ方が暖かくなる。半信半疑で私はダウンを脱ぎ、シャツを脱ぐ。大きめのTシャツ一枚になると確かに寒さは消え、私は心地よい風に吹かれていた。
トミタさん、もしかして、私は死んだの?
啓示のようにひらめいて問いかけた。少し残念そうにトミタさんは頷いた。地震だよ。あの日。
私は辺りを見回す。揺らされて壊された教室の中の、店の残骸。そうだった、あのさわやかな午後に、ここに埋もれて死んだ私の体。寒々しさを感じていたのは、肉体を失ったのに気づかなかったからだ。
奇妙な解放感を感じる。生への執着も悲しみも後悔もない。これまでにないほどに自由に感じる。
トミタさんが笑っていて、私も感謝の笑みを返した。でも多分トミタさんにはもう何も見えなかっただろう。
私の意識は吹く風に紛れて流されていった。
ドロシーは私にとってはブレイクの「虎」。可愛らしい羊の詩もあるのですが、どうもこの虎の方がしっくりきます。なんというか、決してコントロールできず、自分の手に負えない、神の手によって生まれた恐れをかき立てる力ある生き物。
同時にドロシーはむしろエンジェルよりも天使のようだと思います。生々しさも性もなく、世俗化されていない、人とは遠くかけ離れた天使。死の、夜の、守りの、眠りの、力の、そういった全ての天使のようなイメージ。
エンジェルに関してロジャーやドロシーほどに重きを置けないのは、彼女が余りに生々しい人であるからかもしれません。ロジャー、ドロシー、エンジェルの三角関係を楽しんでいた私が、ロジャドロ一辺倒になったのはセカンドシーズンでエンジェルのイメージががらりと変わってしまったせいでしょう。ファーストシーズンの彼女は本当に大好きだったのですが。
私は本当に、とにかくロジャドロスキーで、それには変わりなく書き続けたいと思っていますが、「ここまでで満足でそれ以上は必要ない」だったものが、「その先」について書きたくなってきたのです。
簡単に言うならば、「互いに求める気持ちがあっても踏み込まず、何も変わらない。近付こうにもその術がなく決して分かり合えない」、「愛情を求めるのはロジャドロにおいては希望というより絶望。だからこそいい」という感覚でお腹いっぱいになっていたけれど、今は違う。
「どんな形になるかはわからないけれど、その先があってもいいのではないか」、「絶望ではない希望のある関係も築けるのではないか」というところへやってきたわけです。
これって自分の心境の変化もあるんでしょう。ここ2、3年で大きく変わった部分があるので。
でもいまだにロジャドロのアフェアものは読めません。某ファンフィクション投稿サイトのビゴものも、アフェアありだと飛ばしてしまいます。なぜだろう。他のカプは平気なのに。
しかしこの心境の変化のせいで、ここ何ヶ月かは何をどう書いていいのかわからなくなってます。
「堕天」も私の中では、書きすぎではないかと迷った話でした。以前の私だったら、ロジャーが「自分のもとへドロシーが堕ちることを望んでいる」とは気づかない、と言う話にしたでしょう。まして「Later On」でドロシーからのキスなど絶対に書かなかったと思います。それは私の望むところではなかったからです。
私の考えていたドロシーは、「心を持たず、愛情など知りようもない」と言う存在でありながら、端からはそこからごくわずかにずれて見えるところが魅力的な、そんな存在でした。
一体自分がロジャドロの行く末に何を求めているのかわかりません。明日はどっちだ!