前回の続き。
ナミは砂糖菓子を口に運んでくれるような男、サンジを好きにならないと私は考えていた。
サンジには他のどの女の子でなくナミでなければだめだと思う理由があると思えなかった。
次第にサンナミに傾いてきたけれど、私には自分でその理由がわかっていなかった。私にはナミのキャラクターは好ましかったし、拒否されても口説き続けるサンジの打たれ強さが気に入っているのだと思い込んでいた。けれど二次小説を考えているうちに、私にはふたりに共通点があり、その共通点はふたりを近づける理由になるとわかってきた。
それはふたりの長期にわたる死に近付く経験、孤独と恐怖を心底味わうと言う経験だ。
子供にとって愛されないこと、関知されないこと、安全でないところに暮らすこと、助けてもらえないこと、それは自らの意志ではどうにも出来ない、死に近付くと表すにふさわしいことだ。
長期にわたって死に近付く経験は、その後の人生を大きく歪めて変容させる。そう私は思っている。
そして、サンジもナミもその経験を経ている。
過去を取り返すことは出来ない。過酷な状況を乗り越えた人たちは、その後の人生をこう表現することがよくあるそうだ。
「あの時私は死んでしまったように感じる」
あるいは、
「もう何百年も前に、自分が死んでしまっているようだ」
と。
サンジもナミも、もしかしたらそんな思いを抱えているのかもしれない。
その感覚は、それを得てない(だろう)他者と当人達を遠ざけはしないだろうか。今は恐れも飢えもなく、安全で信頼できる仲間がいて、過去はもう過ぎたことであるとわかっていて、毎日ばか騒ぎをしていても。
視線を逸らしたそこに、すぐ傍らに、ごく間近にあの死の日々はあるのだ。記憶の中、彼らの中に過去は内包されているからだ。
女王様のように振る舞うこともあるナミだが、面倒見のいい一面を見せることもある。もちろんワンピの登場人物はみな面倒見がいいが。
サンジに至ってはもっとわかりやすい。過去飢えに苦しんだからだと自分でもわかっている、人の飢えに対して敏感だ。
それはふたりが過去の自分自身を慰撫したいと願っているからかもしれない。
ナミには彼女の傷ごと抱え込んで、共に深みに落ちることを選べる男がふさわしいと、私は考えていた。しかし弱みも見せられぬ子供時代を過ごしたゆえにプライドが高い(だろう)彼女は、傷があることすら認めたがらないだろう。結局彼女が安心して弱みをさらけだせるのは、心に傷ひとつない健全な男ではなく、同じ歪みを抱えた男ではないだろうか。
サンジはナミの飢えをたやすく見抜いただろう。彼女の飢えを満たすことで彼も飢えをやわらげられるだろう。大なり小なり人には飢えがある。しかし仲間として彼女と親しみ、解放に力を貸した後では、彼女が他の女性とは違う、特別な存在になったのではないだろうか。
過去の自分のように死に近付いていた彼女を、救い出したのだから。
支離滅裂になってしまった。とりあえず今日はここまで。
ワンピを読み始めたころ、私はサンナミスキーじゃなかった。サンナミなんてありえないと思っていた。
サンジは女の子が大好きで、ナミのことももちろん大好きで、でもそれは広く浅く「女の子」という種を愛してやまない彼の性癖で、ナミでなければだめだと彼が思う理由なんてないと思えた。
サンジに愛されるのは、いつも見守られて甘やかされて、大事にされてわがままを許されて、そういうことだ。果たしてナミがそんな愛情を望むだろうかと考えていた。
過酷な日々を何とか乗り切って、罪悪感を保持しているだろうナミは、その過去を過ぎたことと実感するのは簡単ではないだろう。それなのに、ただ砂糖菓子を口に運んでくれるだけのような男を必要とするだろうか。それよりはナミをその傷ごと抱え込み、共に深みに落ちていってくれる男の方がふさわしいのではないだろうか。そう思っていた。
ただ、男の中で一人女として生活を共にする彼女には、サンジのような男はとても助けになるだろうとは思った。いつも気を使ってくれる男が近くにいると言うことは、実際言葉にすることはなくても、ナミは感謝しているだろう。でも、恋に落ちるとは思えなかった。
今でも、ナミがサンジを好きになるとかラブラブになるとか、そう思っているわけではない。サンナミに関して言えば、私の好みとして付き合うまでの過程が楽しいだけで、実際付き合う状況にあまり興味はない。
けれどなぜか次第に私はサンナミに傾いていった。
時間がなくなってしまいました。続きはまた次回。タイトルの内容までたどりつけなかったー。
ティモシー・ウェインライトとR・ドロシー・ウェインライト。娘を再生させた父と、死者を模倣する偽者の娘。
この二人の関係は、私には愛情で繋がるとは到底思えない。
人の記憶は余りに曖昧で、思い出す者に対してのみ甘い。
博士は死んだ娘を、ナイトクラブ『ナイチンゲール』でのR・ドロシーのような、父に従順な娘としてだけ思い出したのだろう。だからこそ、彼の前でR・ドロシーはそう振る舞うように作られた。
父の話に笑い、望み通り歌い、父の庇護を求めてその背に隠れる娘としてしか思い出されない本当な娘は、不幸な存在だ。けれど彼女はもう死んでいる。死者をどう思い出すかは生き残った者の自由だ。
R・ドロシーは笑うことも歌うこともしない。誰かの後ろに隠れてやり過ごすこともない。そうしない、と言うことは、私には彼女の強い意志のように感じる。自分のモデルとなった少女とはまるで違うのだと主張しているようだ。
私は他人の姿と名を持って存在し、その事実に抗い続けるR・ドロシーの方を不幸だと思う。
もしかしたら博士の信じたくない本当のドロシーは、R・ドロシーのようなのかも知れない。そう思うと少し楽しい。
博士とドロシーについてはもう少し書きたい。書いていくうちに私の博士についての不信感が募り、ドロシーの負けん気が強くなるのが、何とかしたいところ。
ドロシーは私にとってはブレイクの「虎」。可愛らしい羊の詩もあるのですが、どうもこの虎の方がしっくりきます。なんというか、決してコントロールできず、自分の手に負えない、神の手によって生まれた恐れをかき立てる力ある生き物。
同時にドロシーはむしろエンジェルよりも天使のようだと思います。生々しさも性もなく、世俗化されていない、人とは遠くかけ離れた天使。死の、夜の、守りの、眠りの、力の、そういった全ての天使のようなイメージ。
エンジェルに関してロジャーやドロシーほどに重きを置けないのは、彼女が余りに生々しい人であるからかもしれません。ロジャー、ドロシー、エンジェルの三角関係を楽しんでいた私が、ロジャドロ一辺倒になったのはセカンドシーズンでエンジェルのイメージががらりと変わってしまったせいでしょう。ファーストシーズンの彼女は本当に大好きだったのですが。
私は本当に、とにかくロジャドロスキーで、それには変わりなく書き続けたいと思っていますが、「ここまでで満足でそれ以上は必要ない」だったものが、「その先」について書きたくなってきたのです。
簡単に言うならば、「互いに求める気持ちがあっても踏み込まず、何も変わらない。近付こうにもその術がなく決して分かり合えない」、「愛情を求めるのはロジャドロにおいては希望というより絶望。だからこそいい」という感覚でお腹いっぱいになっていたけれど、今は違う。
「どんな形になるかはわからないけれど、その先があってもいいのではないか」、「絶望ではない希望のある関係も築けるのではないか」というところへやってきたわけです。
これって自分の心境の変化もあるんでしょう。ここ2、3年で大きく変わった部分があるので。
でもいまだにロジャドロのアフェアものは読めません。某ファンフィクション投稿サイトのビゴものも、アフェアありだと飛ばしてしまいます。なぜだろう。他のカプは平気なのに。
しかしこの心境の変化のせいで、ここ何ヶ月かは何をどう書いていいのかわからなくなってます。
「堕天」も私の中では、書きすぎではないかと迷った話でした。以前の私だったら、ロジャーが「自分のもとへドロシーが堕ちることを望んでいる」とは気づかない、と言う話にしたでしょう。まして「Later On」でドロシーからのキスなど絶対に書かなかったと思います。それは私の望むところではなかったからです。
私の考えていたドロシーは、「心を持たず、愛情など知りようもない」と言う存在でありながら、端からはそこからごくわずかにずれて見えるところが魅力的な、そんな存在でした。
一体自分がロジャドロの行く末に何を求めているのかわかりません。明日はどっちだ!
……
ドロシーが近づいてベッドにシットした。マットレスが深く沈んで私をロックし、めまいをフィールした。ホワイトな指が私の額にタッチした。コウルドにてカインドな指先。スリープする私に触れた手だとシンクするとストレインジなセンスがあった。
この手に気付かないほどディープに眠っていたのだろうか。いいや、あの夢で。私をウェットした天上からの滴。胸にタッチした髪。彼女のコウルドな指と髪だったのか。
……
うわー。これはまさしくルー大柴調。すごいなあ。大笑いしてしまいました。でもさ、クアイアットと書くルーさん、なぜエインジェルはエンジェルと書くんですか??まいっか。
ビゴものが進みません。自分の遅筆ぶりが憎い~。こういう日記を書くにもとても時間がかかります。多分文章を組み立てるのが下手なのでしょう。書き続けることで次第にうまく早くなることを願ってますが、道のりは果てしない。
夜中にビゴのEDを見ていたら、萌えが掻き立てられました。私の個人的な感覚では、ロジャーとドロシーがあのように甘い言葉を交わしあうことはない気がします。例え言葉が浮かんでも、その都度なかったこととして苦く飲み込むようなロジャー、甘さとは無縁な物言いのドロシー。
でもこの曲はやはりロジャドロですよ。この二人の現実では交わしえなかったセリフと言う感じ。地上には見えない伏流のような二人の思い。
なんか変なことを書いている気がする。
『実現の不可能性が愛を成就させる』というようなことを、私の好きな作家マルグリット・デュラスが言っていたそうです。
人を犠牲にして大きくなっていく森にとらわれた女性、その女性の手に落ちる青年、その青年の妹と角のある聖なる人の話。
魔法使いが拾い子の少女を育てていき、やがて世界の秘密に触れる話。
皇太子と巫女とがそれぞれ禁忌の恋に落ちて、一つの国が滅びる話。
不浄の姫としてさげすまれて生きる少女が、託宣に従って父王を殺してしまう話。
姿を消した恋人を探して旅に出る青年の話。
学園のバンパイアもの。
地球規模の大災害ののちに生き残った少女と妹の話。
男2人女1人の恋愛。
水底を探す人々(3部)。
南国の、神に見立てられる兄妹と殺人事件。
涙のような雨、生き別れの姉妹。
台風の一晩の話。
エトセトラ。
思い返してみると、子供っぽくどうしようもない話ばかりです。色々書いていたメモを引っ張り出して読み返してみたら、その青臭さに、恥ずかしさの余り身もだえしてしまいました。耐え切れず相当量処分しました。今もまだまだですが、当時の絵も文もひどい。でもなんというか、勢いがあった。二次創作もいくつか書いていて懐かしかったな。
しかし話の終え方がその当時から変わらない。変わる好みもあれば揺るがない好みもあるんですね。
今の私が書くなら、と考えるのも面白いです。でもほとんど内容も忘れてるし、内容が内容だし。
私がここ何年か考えているオリジナル話も、どこかその当時の踏襲と言えるのかもしれませんが。
今日は夕方から雨になりました。傘を持っていなかったけど、電車を降りたら小降りだったのでとりあえずスーパーで買い物をして帰宅。冬は厚着しているので、雨が降っても体は濡れませんね。寒いけど。
最近キャベツにはまっています。甘くておいしい。今日は豆乳でキャベツポタージュ作ろうかな。
ビゴでお題物をやっています。最後に書く話はもう決まっていて、今はそれ以外のを少しずつ書いています。ネタとしては色々あるのですが、とにかく書くのが遅いので更新がままならない状況です。
遅いだけでなく、書いているうちに支離滅裂になってしまって混乱もします。「業火」では、本当は黒森と妻の出会いや焚書を逃れた文書に関するやり取りや、妻の出自や二人の暮らしについてもう少し書き込みたかったのですが、書いているうちに冗長になりすぎると思えて全て削りました。「堕天」も天使について長々と大耳に語らせるつもりでしたがやめました。どうも私はまとめるのが苦手なようです。
今書いているのはオリバーとローラ、ロジャドロ、アランとエンジェル。ベックとヤムについても書きたい。平行して書くのが私のやり方です。これが支離滅裂になる原因なのかな。
そういえば最近絵を描いていません。ビゴ(ロジャドロ)本を出そうと思って、幾星霜。24~32ページくらいと思っていますが、いつか出せるのかなあ。練習しなくちゃ。
書くことに対して苦手意識があるというのも一因なのでしょうが、色々と進みません。
自分の知識の浅さも情けないし、調べるにもどこから手をつければいいのやら。言い訳ですが。
その上ビゴものを書く時に本当に描きづらいと感じるのは、何があの世界にあって何がないのかと言うところです。
例えば、あの世界には星はあるのかどうか。空は常に雲に覆われています。おそらく星は見えないでしょう。しかし太陽があると言うことは認識されているわけですから、星もメモリーとして残っている可能性はあります。では星を目にすることなく40年を過ごした人々は、星をどのように捉えているのでしょうか。
今現在を生きる私たちも、星を見る機会が少なくなっているかも知れませんが、少なくとも星を実際に見ることも、星の映像を見ることもできます。世界のどこか、自分につながる世界のどこかに星の存在を実感しているでしょう。
シティーの人々は、あるらしいが見たこともない実感することもない星という単語を、同じ意味と重さで40年間保持できるでしょうか。40年も経てば、意味がまったく変わっていてもおかしくはないでしょうか。
このメモリーはあるのかないのか、あったとして意味は変わっていないのか。そんなことを考えるはじめると、果てしなく書けない気持ちになってきます。
「花のように」はありかも、でも植物はどこまであり?外国語はなし、でも外国語から英語に入った言葉はあり?黙示録がだめなら聖書関連の言い回しもなし?そのエピソードは?物語は?御伽噺は?ジョークは?風習は?宗教上の習慣は?
もうわかりません。
かといってビゴものではない企画ものがさくさく進んでいるわけでもなし。