シュバルツバルトです。
業火
夜を渡るように、私は街を隅々まで一晩中歩きつづける。夜に私は力を得るかのようだ。疲れも恐れも感じない。よどんだ臭いの底を、熱に浮かされて私は行く。
小さな世界だ、夜毎歩きまわればことごとくを知ったように思えてくる。そこここに暴力と犯罪と偏見があり、貧困と富裕とが憎みあい、搾取するものとされるものとが命の取引をしている。
私の姿はまるで、夜に隠された影だ。そこにありながら存在しないもののように、人々のささやきとまなざしの間を彷徨する。
夜は暗いもの、光を向けても必ず影を生む。私はそこにいる、影のうちに住まう。
今夜私は理由も知らぬ期待に導かれ、街の東の半ば砂に埋もれた廃墟へ来た。ここで世界は終わり、その先には続く砂と虚無しかないと人々は信じさせられている。その先に向かう者はいない。
街を遠く背にして進んでも、闇に慣れた目はわずかに周囲の様子を捉える。砂の表面はさらりと軽かったが、踏み込むと足に重く、引き止める手のようにまとわりついた。腿を上げるようにしてゆっくりと行く私を街へ吹く風が弄り、巻き残した包帯が後方へなびいた。
風の中に私はかつて妻がささやいた静かな問いを聞いた。
「街の終わる所、この砂の先にはなにがあるの」
私達は廃墟までしばしば訪れて、延々と続く砂の向こうを眺めた。
この小さな世界は成り立ちからして謎で、砂に閉じ込められて拠るところもなく、その上に築かれた人々の暮らしが満たされたものになるはずはなかった。早晩風に吹かれてやがて砂に埋もれるだろう場所。問いに答えるすべもなく、私は妻のまなざしからいつも顔をそむけた。
日々に没頭することで無感覚に生きることもできたはずだ。しかし答えもないと知りつつ、妻は幾度もここではない場所、外の世界について問いかけた。私たちは同じ炎に焼かれていたのだ。
真実を求める、その焼けるような渇望に。
そして私は二度焼かれ、ここにいる。
あの男、街の飼い犬、黒いメガデウスのドミナスに対峙していたとき、高揚感と全能感が私を満たしていた。私には強大な力があり、与えるべき知識があり、この思想はパラダイム市民すべてに還元され理解されるべきものだ。その考えが頭の中に居座っていた。J.F.Kで彼を待つあいだ、私はこらえきれずに笑みを浮かべていた。包帯の下の火傷がひきつれてひどく痛み、しかしそれさえもやっと触れ得た真実の証、力の源流の刻印だった。
力。地下深く震えながら見つけ出した真実の一端は、剥き出しのメガデウスの姿をして力を約束するものだった。目の前で不意に意志を持って動き出し、恐怖とともに私を焼いて変容させ、生まれ変わらせた。
そのメガデウスが街の飼い犬に焼かれた後に、今度は赤のメガデウスが地中から私の前に姿を現した。
炎は燃やし尽くすごとに新たな力をもたらし、古い価値観を拭い去り歓喜と共に高みへと押し上げる。 ひとりの男が炎に焼かれて真実に目覚めた。それがはじまりだったのだ。
次はあの男だ。そしてこの街だ。火を放ち、再生への道をしめすのだ。この矮小な世界を新たな光で満たすのだ。真実の翼で触れて変貌させるのだ。私の手には、真実とまさに一体となるための鍵がある、そう思っていた。
しかし与えられたのは更なる敗北だった。黒いメガデウスに破壊されながらも、またしても意志を得て動くビッグ・デュオを見た。
染み着いた習慣を覚えているのは、心ではなく体なのだろう。夜半シーツの隙間に疲れきった身を横たえ眠りにすべりこむ直前に、私の手はいつも彼女の体に触れようと無意識に左側に伸ばされた。 そこには冷たいシーツがあるだけで、そうだこの部屋に妻はいないのだとその都度考えた。頭ではわかっていても、私の左手はその不在に慣れることができず打ちのめされた。
仮住まいの汚れた部屋で、手を体に引き寄せ私は短い眠りにつく、それもその頃の慣わしだった。もう昔のことのようだ。
砂に足をとられ倒れる私を、柔らかな砂が抱きとめた。目を閉じてしばし風が私を越えていく音を聞いた。私を覆うように砂を吹き寄せる。
夜は眠るもの、短くとも傍らに温もりがなくとも眠りの手に身を任せるものだった、そんな日々はもう遠い。妻と共に暮らした長い日々、その後にもうひとつ部屋を借りた。私は彼女が隣にいない夜に、最後まで慣れずにいた。それでも私は今の私を後悔はしていない。
いかないで。記憶の底から暖かな闇が、私を呼んだ気がした。
なぜだ。私は顔を砂に置いたまま声に出さず闇に問う。なぜそんなことを。
私たちはひとつの真実を求めて、ともに抗っているのではないか?例え今こうしてはなればなれになっていても同じ理想を保持して。
声は黙す。私は重い腕を上げ、砂上に伸ばした。触れるのは冷えた細かい砂ばかりと知っていた。
妻を思い浮かべようとしたが、うまくいかなかった。瞳は緑、虹彩の中の茶色の斑。少し子音の強い話し方。彼女がどんな人だったかは覚えている。しかし全てが遠くうすぼんやりとしていた。確かに見えても触れえぬ水鏡のように。
彼女と私は共に探求心に焼き苛まれた。私たちはその意味で同じものだった。けれど、彼女を地上に残して私だけが地下へ下り、私だけが力に触れて再び焼かれ──。
彼女は今このとき、どこにいるのだろう。私はこれからどんな場所で眠るのだろう。
わかっているのは、もう彼女に会うことも触れることもないということ。闇にただひとつ確かなものと思っていた彼女を見失ったと言うこと。まるでこの砂を超えて、遠い世界の果てを闇に覗き見たかのようだ。
顔を上げるとすでに優しい夜の闇は去っていた。半ば砂に埋もれた体を曇天の下に起こして立ち上がる。眠りに落ちたのはどれくらいぶりだったろう。目覚めたのは、胸を掴み取る予感のせいだ。
海が近いのだろう、潮のにおいがかすかにしてきた。変わらず私を街へ吹き返そうとする風に逆らって、なにかに呼び寄せられるままにただ足を進める。いまだ治らぬ火傷の痛みも感じない。期待に胸は逸り、足にかかる砂の重さをさえ心地よく思える。
遠くで砂煙が立ち上がった。轟音を立てて蛇行しながら砂を巻き上げ、恐ろしい勢いで近づいてくる。跳ね上がり、深く潜り、荒々しく咆哮を上げる。私は大声で笑う。ついに来た。
私をずっと呼んでいたのはこれだ。私を次の場所へ持ち上げて、焼き尽くす業火。その姿が見える前に理解できた。やがて街中に撒かれる紙によって知らされるリヴァイアサン。私が予言した禍々しい獣。解放のときだ。
私はもう一度炎に身を捧げるために腕を広げる。目を閉じずにその瞬間を待つ。鈍い振動が襲ってきて足下で砂が弾けた。体が宙に投げ出され、手が空を切った。雲を映したはずの視界がなぜか、夜の闇のように昏かった。昨夜私を抱いた砂に落ちたときに、わずかに一度だけ光がひらめいた。
炎は私の全てを燃やし尽くした。
もはや私にはなにもなく、……なぜか手に残るあたたかみも、ぼんやりと砂嵐の中に消えてゆく。
(20061002)