ロジャドロです。
105度
闇の中に目覚めてみると、頭が殴られたように痛み、口内で舌が厚く腫れて感じた。汗で寝間着が湿っていて気に障った。
夜半なのだろう、寝室のカーテンの隙間から入るのはパラダイムシティーのネオンの遠い照り返しの光だ。寝台から起き上がろうとすると左上腕にも痛みを覚えて、私は低く悪態をついた。
地下でドロシーによく似た姿の悪夢に銃で撃たれて傷を負った。その後に海から現れたメガデウスを退けた。屋敷に帰る前から奇妙な疲労を感じていたが、ノーマンに傷の手当てをしてもらってから食事をとった。それから。
記憶は途切れている。わずかに残るのは光に満たされた洗面所の白さや、頬に触れる居間のソファーの革の冷ややかさなどの細切れの感覚だ。もしかしたら嘔吐したのかも知れない。喉に残る違和感が、記憶の中ではひどく強い。
水を求めてサイドテーブルに手を伸ばしたが、指先に触れるのは磨かれた木材のなめらかさだけで、私は小さくうめいた。
すでに夜遅い時間で、ノーマンは眠ってしまっているのかもしれない。そしてドロシーは。
彼女はいつも、夜の間ひとりこの屋敷で一体何をしてすごすのだろう。
渇きの強さと、起き上がれば盛大に痛むだろう頭と傷とを天秤にかけてはみたが、身にまとわりつく重苦しさにまるで考えがまとまらない。
鈍い痛みもだるさも渇きも汗ばんだ体も、何もかもが不快でいらだたしかった。私は体を寝台に投げ出したまま、カーテン越しの弱々しい明かりをぼんやり見ていた。
しばらくして、明かりもつけずに静かにドアを開けて、ドロシーが部屋に入ってくるのを視界のはしで認めたが、具合を尋ねるのを子供っぽくも無視した。
気にもとめない様子で、運んで来たトレイをテーブルに置く。暗闇にも迷いのない仕種に私は少しだけ感心する。彼女に助けられて半身を起こすと予想通り盛大に痛んだが、奥歯を噛んでやり過ごして、差し出された水のグラスを口に運んだ。半分飲んだ所で、鎮痛剤よと薬が渡されてそれも飲んだ。
「吐いたのか、私は」
「ええ、居間で少し休ませてから寝室へ運んだの。水をもう少し飲んだほうがいいわ」
言われるまま水を飲んだ。冷たい水は喉を過ぎる瞬間だけとは言え、痛みの中でも私に清浄な感覚をもたらした。
寝間着を着替えるかと問われて、そうすると答えたにもかかわらず、着替えを取りに行った彼女を待たずに、私は眠りに沈み込んだ。
続く長い夢は断片ばかりだった。子供時代の思い出やもう名前も思い出せない昔の知己の表情や、突拍子もない出来事が目まぐるしく行き交うその隙間にも、焼ける空とメガデウスの隊列の光景や、狂ったようなアンドロイドの叫びや、私を必要としない街の様子が紛れ込んできた。
部屋を出る時に前室を抜けるように、目覚めの前に通り過ぎたいくつもの夢の最後では、人気のない街路で緋色のドレスをまとった少女が前に立ち、もう一度私の名を呼んだ。
冷たい雨が降り出して私を濡らしたが、同時に光が不意に空を満たし、仰ぎ見た私の胸に誰かの髪がじかに触れた。
目を開けるとドロシーが寝台の傍らにいた。いつもの黒い服で身を包んでいる。まだ夜は明けていないようで、今度は柔らかい照明が彼女の顔に優しい陰影をつけていた。
「ひげが伸びたわね」
言われて横になったまま顎に触れる。その手触りに、どれくらい眠っていたのだろうと考える。頭痛は治まっていたが、まだ体は重く頭も働かない。
「何か食べるなら持ってくるわ」
体調が良くないせいか食欲はない、が。
「食事よりも差し迫った問題がある」
「生理現象ね」
「はっきり言う必要はないよ」
起き上がるのを助けてくれと頼もうとしてためらった。具合が悪いせいだ、いつもよりも彼女に頼りすぎている。そう思いはしたが、何も言わずとも彼女が手助けしてくれたので、甘えてしまうことにした。背に手を添えられて起き上がり、ふらつきながら私は洗面所へ行った。
寝台に戻るときちんとシーツは換えられて寝間着が用意され、彼女はいなくなっていた。着替えて寝台に横たわったところで、スープを載せたトレイを持って彼女が戻ってきた。
床についたまま薄い塩味のスープを味わうと胃にしみるようで、自分が多分長く眠っていたのだろうと思えた。
そういえば眠っている間、私はいつの間にか寝間着に着替えていた。屋敷に帰ってから着替えた記憶はない。何気なく訊いてみると、ドロシーはそっけなく答えた。
「一度目は、服が汚れてしまったからノーマンが」
「一度目?二度目もあるのか?」
「私がスポンジバスをして着替えさせたわ」
「君が?」
スポンジバスに着替え。
彼女に体を拭かれて子供のように着替えさせられるのを想像して、私は押し黙った。今感じているのは、はたして怒りなのか羞恥なのか、困惑なのか。私の様子に気付いてか、ドロシーが続けた。
「二度目はノーマンは眠っていたし、あなたが着替えたいと言ったのよ」
「私は覚えていない、……いや、着替えたいとは言った」
「戻ってきたら眠っていたの。何もしない方が良かったと言うなら、謝るわ」
ため息をつくと頭痛が戻ってきた。彼女は好意でしてくれたんだとわかっている、それでも苛立ってしまう。
「いや、いいんだ」
彼女から目を逸らしてなんとかそう返したが、礼は言えなかった。
ドロシーが近づいて寝台に腰掛けた。マットレスが深く沈んで私を揺らし、めまいを感じた。白い指が私の額に触れた。冷たくて優しい指先。眠る私に触れた手だと思うと奇妙な感覚があった。
この手に気付かないほど深く眠っていたのだろうか。いいや、あの夢で。私を濡らした天上からの滴。胸に触れた髪。彼女の冷たい指と髪だったのか。
「あなたは熱があったの。だから」
「傷のせいなのか」
「いいえ。傷の化膿はないわ。屋敷に帰って不意に105度以上に熱が上がったのよ」
あの重苦しさは熱のためだったのか。熱があったのならば辛かったのも納得できる。
「でも、もう下がったわ。ノーマンも安心するわ」
彼女が寝台から立ち上がり、指が離れる。いつもよりも甘いのは彼女も同じなのかも知れない。私は宙に描かれる軌跡を辿る。
視線を窓辺に転じると、薄く静かに夜が明けていく気配がしていた。日が昇らなくとも世界には朝が訪れる。
バルコニーから街を見ようとテラスへ出た私に続いて、彼女も薄暗い室内から涼やかな風の中に出てきたのが足音でわかった。
この事件に関わった間に降り続いた雨はとうに止み、空気に水の匂いはない。
ドロシーが私の背に向けて話しかけた。
「人は衝撃的な出来事に遭遇すると、その後に体調を崩すことがあると言うわ。あなたは地下で銃創を負っていた」
「ああ」
「地下で傷を負うような何かがあったの」
視線は街に向けたまま、私は考える。何があったのか。この一連の出来事とは一体何だったのか。
残るのは解けぬ謎と若者達の死の事実と、私の腕の傷だけだ。死体は歎きのうちに葬られ、私の傷は癒えていく。この事件に私は、そして軍警察は、どうけりをつけるのだろう。
ドロシーに似たアンドロイドの存在を、私はどう理解すればいいのだろう。ドロシー本人にどう語ればいいのだろう。
「あなたは私がビッグオーに乗っていたことにひどく驚いていたわ」
「ノーマンかと思ったんだ」
答えながら嘘だと知っていた。
赤で身を覆い、銃を突き付け私を殺そうとしている者をドロシーだと思い、彼女に撃たれるのだと思った。そこにビッグオーがきて、彼女を粉砕した。かけらが足元に落ちてくるのを見てその時に感じたことは、今でもこれから先も表現出来そうもない。
長雨と悪夢に彩られた様々な事柄が、私を揺さぶった事件だった。
「それだけだ」
「そう」
短く相槌を打つ彼女の方へ振り返り、笑って見せた。これが笑顔に見えればいいと願いながら。
久しぶりに朝の明るさの中で見るドロシーは、R・Dとは似ても似つかなかった。まるで違う、そう、R・Dは私を介抱などしないし心配などしない。ドロシーを夢に見ても、それは悪夢ではない。
「地下で悪い夢を見ただけだ」
はぐらかされたと思ったのか、ドロシーはそれ以上追究しなかった。
105度の熱に焼かれた夢の灰が、風に流されて消えていった。冷たい風が頬を洗い、眠っていた体が目覚めて行くのがわかる。夢の後にはいつも、甘さよりも切ない苦みが残る。
低く世界を覆う曇天のどこかに、夢に見た光の残滓でも覗かないかと見上げて、私はため息をついた。
*華氏105度:摂氏約40度
(20060818)